よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

出口入口そして重さ

自分で言うのも恥ずかしいですが、子供の頃、特に幼稚園児の僕はまぁ可愛かった。周りには蝶よ花よと育てられ、すれ違う人々は可愛いと振り返った……とかなんとか。じゃあなぜ今のお前はブタ面トラックぶら下げて、ねじりハチマキよろしく捻くれ上がった性格になったのだというクレームは受け付けない。人生とはどう転げ落ちるのかわからないのだ。「昔は可愛かった」なんていう大人は掃いて捨てるほどいて、僕もその一人だったというだけの話。当時の写真を何かのアイコンにするとこはないけど、そんな機会があればきっとその可愛さをみなさんも認めざるを得なくなることでしょう。

そんな僕は無論、親戚にも可愛がってもらった。会うたびにお小遣いをもらった。しかし、そこはやはり子供。今以上に常識や知性がなかった。お札をもらっては硬貨に替えろとせがんだ。10,000円より500円が好きだった。お札より硬貨の方がよいものだと思っていたのだ。理由は『重いから』。重いものは価値があり、よいものだと思っていた。物質として実感できるのはわかりやすくてよかった。今では極力小銭を持たず、電子マネーを好むけど。

 

ブラック職場の疲れの蓄積なのか、どんどん体調が悪くなっている。いくつか病院を巡った結果、検査のために躰に管を入れることになった。管を。下の出口から。前の方の下の。6mmの管が僕の前面の下の出口から入ってくるらしい。怖くて他の方法でなんとかならんかとお願いしたところ、「CTも撮りますが、別物なんですよ。私はやったことないですが、発狂するほど痛くはないはずです」と医者は言った。このはずですという含み。それからというもの、僕の頭は恐怖で支配されている。想像できない痛みを勝手に脳内で肥大化させている。だって出口ですよ。出口を勝手に入口にされるんですよ。されたことあります?出口を入口にされたこと。こっちとら何者の侵入も許したことがないのに。後ろの出口は子供の頃に座薬を入れられたことがあるから、数度入口になったわけですけれど。前の出口は純然たる出口として、一方通行を貫いていたのに。

 

健康には質量はないけれど、生きていく中では大変な重さのあるものなんですね。自分の中でなにが重いのか改めて考えてみると、失って気付くことが多くて嫌になる。サン=テグジュペリは「かんじんなことは目に見えないんだ」と言っていたけど、医者、いや、お医者様。かんじんなことが見えない可能性があるから、管入れるのは止めにしない?