よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

最終回の再放送は、無い

靄がかかったようにずっと頭がぼんやりしている。やることはあるはずなのに一向に進む気配がない。思考が重い。どうにも発見がない。本当は色んなことを考えていたはずなのに。毛布にくるまって時間をやり過ごすことが多くなった。直面する大きな問題がないのかもしれない。生産性とは程遠い生活をしている。周りは結婚したり子供ができたり、転職をしたり。なんだか大変だと言う割には楽しそうな人たちを見て、少し羨ましくもなったりする。

 

数ヶ月前、眼鏡を新調した。ずっと使っていた黒縁の眼鏡は、確か高校1年生の頃に買ったはずだから、最終的に13年使っていたことになる。物持ちがいいといえば聞こえはいいが、変えるのが億劫だったという方が正しい。眼鏡を変えたときの視界の違和感や人になんのかのと言われるのを思うと、度数が合わなくならない限り、あるいは流行りに乗っかろうとしない限りそうそう変えるものでもない。

携帯も買い換えた。といっても、これはもう換えて1年ほど経つ。前の携帯は6年ほど使ったところで、液晶がうまく映らなくなった。昔は最新の機種が欲しかったものだが、今は最低限の機能さえあればいいと思うようになってしまった。親にスライド式の携帯をねだっていた頃が嘘のようだ。

 

先日、母親から連絡が来た。画像付きだった。そこには車が映っていて、2台とも買い換えたとの内容だった。車種は同じで、青と黒が1台ずつだったのが、どちらも白になっていた。多分買い換えるならと色を変えたのだろう。高齢なのだから、このご時世だし、きっと気をつけて欲しいと思うと同時に、不意に寂しさが湧き上がってくるのを感じた。

 

年齢も年齢だ。彼らは恐らく、もう車を買い換えることはないだろう。白の車が、およそ彼らの最後なのだ。そういう意識はあるのだろうか。いつまでも元気なままでいてほしいが、どうしてもそんなことを考えてしまう。家も建て替えてほしいと冗談交じりに言われたが、そうしたら彼らは何年くらい住むのだろうか。宝くじでも当たれば建て替えてあげたいのだが。

僕はどうだろう。あと何回眼鏡を、携帯を買い換えるのだろうか。家なんて買ったりするのだろうか。なんだかそんなことばかり考えている。