よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

ただ、ふっと好きなんだ

前回、私は自分の好きだという感情が本当に”正しい”のか、不安になる。好きってなんですか?という、三十路にもなろう男が思春期のいいそうなことを書いたところ(それでも好きだと言えるのか)、友人がアンサーソングを書いてくれた(好きと言っていい)。書いた私が恥ずかしくなるくらい丁寧に内容を分析しつつ、彼の経験を背景とした意見が滔々と述べられる。そして彼は最後に宣言する。

「それでも好きと言っていい」

私の文章に共感してくれた方の中には、私も含めこの言葉に胸がすく思いをした方もいただろう。あとがき的なポジションであるにも関わらず、私の文章を食ってはいないか。だとしたら許せん。 

しかし今回は、その宣言があまり響かなかった人の気持ちをもう少しだけ掘り下げてみたい。なぜか。やはり私自身が少し気後れしてしまうからだ。捻くれあがった感性に特効薬はないのだ。

 

軽々しく何かを好きだということに抵抗があるのには、もうひとつ理由がある。誰かの”影”に怯えるからだ。つまり古参とでも言ったらいいだろうか。その人たちに対する恐怖である。分野に精通している自負のある人は、「その程度で好きだと言うな」と新参者を牽制する。それは彼らにとって聖域を侵すことと同義だからだ。彼らの好きは人生を意味している。彼らが仲間と認めるのは知識量を始めとし、費やした金・時間が一定量を超えているかどうかなどがある。考えてみれば、確かに自分が古参の立場で生半可なことを言われたら、「眠たいこと言ってんじゃねーぞ」となるかもしれない。

 

第一人者というのがどういう決め方なのかはわからないが、誰よりも詳しくなることが対象への誠意、愛の証明であるかのように盲信してしまうことがある。現になにも知らないで好きと公言するのは地雷で、好きなんだったらこれくらいするだろうという踏み絵が現れる。

知識量の多さは誰かに対してのポーズみたいなもので、知識のひけらかし合戦、マウントの取り合いに負けまいとする場合であったり、人へ教えたい一心からだったりする。私はよく音楽好きたちに「◯◯も知らね〜の?」と得意げな顔で嘲笑されたりする。だから嫌なんだ奴らと話すのは。勝手にマウント取り合ってろ。

個人的な恨みが入ってしまった。つまり、軽々しく好きだと言えない理由は、これは歪んでいるのかもしれないが、自分が古参の立場であったらどうだろうかという”自身の影”からの恐怖なのである。

 

私自身、「ビギナー」であることは許容できるのだが、「にわか」になることが耐えられない。一時の感情ではないか?ずっと好きか?なぜ好きか?と問い続けてしまう。これも好きだと言えない大きな理由かもしれない。瞬間の盛り上がりでないか、内省していることがよくある。これが好きかどうかを鈍らせる。好きと言われて嫌な気持ちになるはずもないのに。

ただ、ふっと好き。これほどさっぱりとした表明がいいのだろうけれど。

 

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