職場の同僚がほぼすべてのことについて「自己責任」の一言で一刀両断している。「通勤は遠いけど、その家とこの職場を選んだのは自分だから」。あるいは、「台風とか大雨で仕事ができなかったけど、期日までに終えられなかったのは自分の責任だから」と。言っていることは一理あり、大きく間違っていない。同僚自体は責任感の強さからそう言っている。しかし、これは聞いている方が苦しく、いたたまれない気持ちになると同時に、怖くもなってしまう。もしこの厳しい自己責任論が他者に向けられたら、一体どうなってしまうのだろうかと。
同僚は災害に対してさえ「自己責任」というのだから、自らの体調不良、あるいは大病した場合(例えば不治の病、精神的な病)にも、自己責任というのだろうか。交通事故の完全な被害者になったら、自分がその道を選んだことや回避しきれなかったことすらも自己の責任だというのだろうか。
個人の努力や運には限界がある以上、自己責任は万能ではない。過剰な自己責任は自分にとっても周りにとっても呪いであり、傲慢ですらある。自分さえ責任を果たしていれば事故も起きず、仕事も滞りなく進められる。万事が上手くいくと言っているのと同義であり、それはまるで自分を神かなにかだと思っているようではないか。それははなはだ誇大妄想と言えるだろう。
とは言うものの、わたし自身にも似たようなところがある。それが隣人の発言に違和感を覚えた理由だ。自己責任論者は自罰的なところが多分にあり、あらゆるマイナスな出来事の原因を自らに求める。たらればを並べて、そうでなければ自分にはできたはずだと自らを責める。反省するフリをして、空想の世界に逃げ込む。つまるところ、完璧主義者という名の夢想家で、理想と自らの能力の乖離が許せないのだ。
自罰的であることは一見勤勉家で好意的に思われるが、実のところは自分だけが正しい選択を繰り返していけば、最良の結果を残せると思っている。
自分で自分の非力を理解していながら、物事が失敗に終わると「自分さえきちんとしていたら、こんなことは起こらなかった」と後悔してみせる。ひどく傲慢な考え方の持ち主である。
自己責任論が横行する現代にあって、確かに自分さえ正しければなんて考えは、もちろんそうあろうとすること自体は大切なことではあるが、苦しいだけの非生産的な甘えではないだろうか。我々は自らのポンコツを愛し、他者のミスを許せる多少の度量を持つべきなのだと愚考する次第である。