よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

銀座と松茸とたいやき

先日、銀座で松茸を食べてきた。

すごい文だ。完全に成り上がっている。まず「銀座」だ。銀座は何でもかんでもきらめいている。これでもか!というくらい高級感がある。わたしのようなダンゴムシ系男子は落ち着かず、キョロキョロそわそわである。陽の氣が充満している。何度行っても、自分がここに慣れることはないという実感がある。そして慣れてもいけない。それが銀座である。あまりの高級感に泡を吹いて倒れるオノボリさんが何人いたか。50を超えた辺りから数えるのをやめてしまった。

そこに追い打ちをかけるのが「松茸」だ。松茸尽くしのコースだった。松茸の一本焼き。これは一本焼きの王様と言い切っていいだろう。一本焼きで松茸を超えられるものがあれば教えてほしいくらいだ。

つまり、この「銀座」と「松茸」の足し算は、とてつもない威力があり、僭越ながらこれを読んでおられる諸兄らの身を案じる次第である。

 

銀座で松茸を食らった帰り道、わたしは銀座にやられていた。無論、当事者であるわたしが無事でいられるはずがない。足は笑い、暑いにも関わらず冷や汗が止まらなかった。殺気立っていた。そして不意に思い付いた庶民的な歌を口ずさんていた。

 

「毎日毎日僕らは鉄板のぉ〜上で焼かれて やになっちゃうよぉ〜」

 

松茸も七輪の上で焼かれ縮んでいた。銀座のアスファルトという鉄板の熱気もわたしを焼いていた。わたしも縮んでいた。

 

……いやお前のは仕事だろ!たいやき!仕事なめんな!松茸を見習え!松茸以下のくせによぉ!

 

気が付いたら、わたしは銀座でそう絶叫していた。屍となっているオノボリたちがビクッと肩を震わせていた。

ん?待てよ?なんだこの曲の違和感は。

僕らは?主語は「僕」ではなく、「僕ら」なのか?

 

思考の並列化をしているのか?たいやきAの体験をたいやきB,Cが理解しているのか?突拍子もないと笑うことは簡単だ。しかし、そう考えると説明がつく。ご承知の通り、このあと腰抜けのたいやきは海に逃げ込んだ。これは、今まで焼かれ、売られていった同胞たちへの弔い、次に控えている哀れな同胞達を守るための店のおじさんとの聖戦だったのではないか!

 

……なんだこれは。これが銀座で松茸の魔力である。わたしにこんなことを書かせた銀座を許すな!松茸も許すな!たいやきが食べたくなってきた!以上!