よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

嘘だけど、沖縄では愛人のことを「あいんちゅ」と言うらしい

気が向いた時に漢文を勉強している。例えば春暁(春眠暁を覚えず…)や春望(國破れて山河在り…)などの有名なものが載っているテキストに何箇所かメモ書きする程度である。漢文など高校生以来まったく触ってこなかったが、テキストが易しいお陰で楽しく進められている。

読み進めていると、やはり日本語とは違った読み方や表現が出てくる。それを見つけると、私はゾクゾクしてしまう。こういうのに弱い。一種の癖といってもいい快楽を覚えるのだ。ちなみに漢字単体にもこの癖は及んでいて、「躰」は、見ただけで身体を簡潔かつ端的に表しているからたまらない。

 

以前、「ワンタンというのは雲呑と書く。なかなか面白い表現だと思わないか」と友人が言っていた。なるほど確かに、雲を呑むというのは洒落が利いている。見た目はわたあめの方が雲だが、『綿飴』という名も、体を表していてなかなかいい(当然か)。

友人は他にも「蓋が閉まる」を簡潔に表現する言葉を探し、「閉蓋」に辿り着いたとも言っていた。この事例も、探せばかなりの言葉が見つかるので面白い。「人づてや噂などで聞くこと」は『仄聞(そくぶん)』と書き、「薄」ではないものの、「仄か(ほのか)」がいい味を出している。

 

先日散歩をしていた際、物言わぬ消費者を「サイレントカスタマー」と名付けてみたが、しかしどうにもこれはサイレントマジョリティ*1に影響されている上に、サイレントカスタマーという言葉は既にあって、自らの感覚が嬉しい反面少し悔しくもあった。

日本語は知らないだけで良くできていて、奥深くて面白い。愛らしくすらある。

 

そういえば椎名林檎×宮本浩次の『獣ゆく細道』の一節。

「本物(モノホン)か贋物(テンプラ)かなんて無意味(ノンセンス)」

という部分が琴線に触れる。俗語として定着してはいるものの、こうまで畳み掛けられると非常にバキ的なものを感じる。特にテンプラの部分なんかがたまらない。

 

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範馬刃牙 30巻178P 

「臀部(けつ)で炸裂(はじ)けた 人類(ひと)ならぬモノの衝撃………」 

 

匆々、以前書いた『ある同級生への献文』だが、文を献上するという言葉はないので献文という言葉を造ってしまった。擬春という言葉を作ったこともある。伝わっていると嬉しい。

 

*1:silent-majority / 物言わぬ大衆。声なき声。