よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

それでも好きだと言えるのか

好きなものを好きと言うのは難しい。昔に比べれば多用な価値観が許容されるようになったとはいえ、それでもある種のレッテルは簡単にはなくならない。

例えばアニメが好きと言えばオタクっぽいと思われそうだし、ゲームが好きと言えば子供っぽいと言われる。読書が好きなら知的な感じもするが、ライトノベルや漫画ばかり読んでいるともっとしっかりしたものを読みなさいと思う人もいるだろう。

私は自分の趣味嗜好を公言するのがどうにも耐えがたく、もっと言えば何かの感想やレビューを書く際、底を見透かされるような感じがして嫌なのだ。本や映画、音楽なんか地雷源で、「わかってない」と嘲笑されかねない。 私の好意を否定されるようで耐え難い。

大人になると距離を置くことばかり上手になって、なにかを好きになるには体力や歩み寄りが必要になる。趣味嗜好だけではない。学生時分と違って恋愛なんてもっと難しいものになるんじゃないだろうか。

 

前職がレコード店員の知人とwarpaintのライブに行った日のことだ。そのアーティスト自体も知人に教えられて好きになったのを思い出し、帰りに最近のおすすめを聞くと、「D.A.Nいいよ」と言われた。恥ずかしながら私はD.A.Nを知らなかった。

やたらと音楽に詳しい知人の豊富な知識とセンスを信じている私は、しかし翌日首をかしげた。D.A.Nがいまいち琴線に触れなかったからだ。のはずが、数日して、徐々にいいと思うようになった。そしてその思いが強くなっていく裏側で、これは勧められたからいいと思うのではないかという不安が襲ってきた。

そう思えば私の本棚にある本も、人に勧められたものが多い気がしてくる。もしかして自分には好きなものはなくて、誰かの肯定がなければ支持できないのかもしれないという恐怖。周りに同じように支持する人がいれば、その勢いに流されて、こんなことを考えずに漂っていけるのだろうか。その場に合わせたり誰かを傷つけないように本心を偽ることだって少なくないから、自分の価値観がぶれていく。

だんだん『自分は本当にそれが好きなのか』不安になってくる。

 

レビューやいいねの数が多いとき、美味しくなければ自分の味覚が間違っていると思ってしまうし、面白がれなかったら自分の感性がずれているんだろう。「こんなに素晴らしい作品を理解できないのか」と強く来られると謝りたくなってしまう。

もしかしたら私はその分野において信頼している人や不特定多数の評価を無条件に受け入れているだけで、本当は何も選択していないのではないか。今私がよしとしているものを後ろ楯がない中で見つけたときに、本当にいいと思えるだろうか。

私には一晩中語っていられるものがない。それでも好きだと言ってもいいのだろうか。