よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

少しだけ大人になった気でいる

先日誕生日を迎えた。少し早く寝て、起きると何件かおめでとうとメッセージが来ていた。ありがたかった。多分どんどんメッセージをやり取りする件数が減っている。人間関係が苦手だから仕方ない。

前回書いた記事がひどく雑で、旅行の仕方が効率が悪く段取りの悪い人ではないかと酷評され、それを小さく引きずった。確かに旅行自体だいたい思いつきの行き当たりばったりで、それを書こうとするからだろう。紹介にしては情報が少ないし、主観も弱いという心当たりがあるために突っぱねることもできなかった。厳しい意見を受け入れるのは歳を重ねたって十代の頃と変わらず難しい。いや、昔は意見を受け入れようとはしなかった。それにしても内容に感想をもらえるのは、どうしたって嬉しい。

 

定時を過ぎるとそわそわして帰り支度をするのに、先週は仕事が長引いたり上りの首都高が渋滞していたりで会社を出るのが遅くなりがちだった。いつも遅くまで残っている人たちに毎日驚かれた。

誕生日は誕生日だからという建前の元、いつも通り早く帰りたかったのだけれど、遅く帰社したところ、何人かがこっそりお祝いをしてくれた。なにも聞かされていなかったので驚いて、同僚たちはそれを満足そうに笑ってくれた。大っぴらにやられると、無関係に仕事をしたい人たちにはご迷惑ではないか、祝われていない人たちを間接的に傷つけたりはしないかなど考えすぎとはわかっていても僕の方でも居心地が悪いものがあるので、それを配慮してくれたことがひどく嬉しかった。

 

自分の誕生日なんてものはなんでもない日だと思っているが、祝ってもらうとそうも言えなくなった。そんなことは不粋で、祝ってくれている人たちには笑っていて欲しい。

そんな風に思えて、自我を飛び越えて余計なことを言わなくなった。ひとつ歳を取って少し大人になれたのかもしれない。けれどもやっぱり、大々的にやってもらうのは少し気がひける。盛大さは来年に恐怖と落胆に変わる気がして。

 

新作をやると聞いて、最近スターウォーズを見直しているのだけれど、昔ほど戦闘シーンに興奮しなくなった。子供の頃に映画館でエピソード1を見た時は随分興奮したものだけれど、もう空想のライトセーバーを振り回すこともなくなった。あるいはこれも大人になるということなのかもしれない。

 

次は友人の誕生日が近い。僕なりにもたっとした誕生日の祝い方をしてやりたい。