よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

僕たちはいつもそれを問われている

盆休み、幸い仕事も入らなかったので帰省。と見せかけて、新幹線を降りて自分の実家から程近い友人Dの実家へ。なんでも友人Dの実家では家族6人でBBQなるものをしていると聞き付け、僕は部外者代表として、長坂の戦いの趙雲ばりに単騎乗り込んだわけです。そうですね、厄介ですね。

 

ここの兄弟は無闇に高学歴なんですけど、末弟は大学5年生に突入し、就活そこそこに危機感なくのらくらしている(ように見える)んですよ。ちなみに僕はこいつがなかなか好きで、その賢さはいつか一角の人物になるものを備えていると思っている。

酒を飲み続け日付も変わった頃、友人Dの末弟がご両親に『お前は何かしたいことがないのか』と、まあ酔っているのもあるのか何度か言われていた。敢えて言うと、ご両親は「否定しないから、取り敢えずやりたいことをやってほしい」と言っていたし、お二人とこの兄弟の人間性を見ていると、確かに否定されずに育てられてきたのだろうことは想像に難くない。いい人たちなのだ。それはBBQ翌日も、つまり2日も続けてお邪魔した僕にはわかる。

 

もう僕も30歳を手前にして子供がいたっておかしくないし、最近では親の感覚を少しずつ理解できるようになってきた。そりゃ親としては子供のやりたいことをやらせたいし、なかったら見つけて欲しいのは当然なんだろう。

そんな光景を見ながらしかし、どうも年齢の近い末弟を見ていると思い起こされるものがある。僕らは就職する時、あるいは大学を決める時、理系文系を決める時、もっと言えば彼女にどこに行きたいか尋ねられた時だって、『お前は何がしたいか』と、ずっと問われ続けてきたことを。

そして、これは僕の場合だけれど、回答はいつだって『わからない』だったり『逆に選択肢を教えてくれ』だったり。そしてなにかを決めた時、例えば大学だって就職だってなんだって、『なんとなく』でここまで来てしまっている。やりたいことがなかったわけじゃないし、やってみたいことは少しはあったはずだ。けれどそれを生活の基盤にできるかと言われれば、数々の「天才」を見て無理だという確信めいたものを感じたし、選んだものに対して、自分以外の人間も納得させなきゃいけなかったりする。実はそのことの方が難かしいんだと思う。

多分、多くの人がそうだったんじゃないかと思うし、だからこそ『何がしたいのか』は普遍的な問いであり続けるのだろう。けれど明確な回答を出し続けるにはいつも時間は足りなくて、急な流れに溺れそうになっていることがほとんどだ。あの頃大人たちは何者にでもなれるって僕に言ったし、実際に今の僕は中高生を見ているとそう思う。それは確かに間違いないんだけど、それはそれで解決に進んでいないというのが実感だったりする。

これは人の家の、他人の人生の話なので、僕が首をつっこむことじゃない。じゃあ僕が同じような状況になったらどうしたいかという話なんだけど、それを考えられるのって案外親でもなければ学生でもない今は結構いい時期かもしれない。

 

早くに道を決める人、例えば医学部だったり専門学生だったり、スポーツ選手だったり。そんな人たちを尊敬するし、そして羨んだりする。

ここまで『なんとなく』で来てしまっているけれど、選択を迷っていた頃に想像していた未来よりは悪くないとも思う。だからこそ何者かになれないもどかしい気持ちを抱えながら、諦めて何者かになるしかないのかもしれない。個人の未来に特効薬はないらしい。