よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

縁と賞味期限

4月下旬だったか、渋谷で凡そ5年振りに後輩に会った。大学生の頃に一緒にバイトをしていた、後輩というよりも友人のような人間だ。ここ5年ほど全く連絡は取っていなかった。連絡を取ったきっかけは、なんだかLINEのタイムラインとかいう不要なところに「横浜に出てきた」というようなことが書いてあり、初めてタイムラインとかいう不要なところが仕事をしたなと思った。なんでも大学院にいって、それから就職をしたような話らしかった。

彼とは仲のいいつもりだったのだけれど、二人で飲みに行くこともなければ、軽く飯を食う以外に時間を共有したことがなかったと思った。いつもはもう一人同僚がいて、それでうまく回っていたのだった。複数で行動するときによくある現象だ。

こうなると随分時間の空いたのもあって、無闇に強張り気持ちに暗い影を落とすのを感じた。話す内容をいくつか用意して、それでつまらなかったらいよいよ帰ってしまおうくらいに考えていた。そうなるといつも僕はつまらない決意を思って、しかし酒が入ると楽しくなってしまってそんな一種乾いた感情のこともしっとり忘れるのだった。

 

当日、彼も、そしてもちろん僕もそうなのだけど、学生の頃に比べて髪が短くなっていて、ギリギリお互いを認識できたくらいに、薄ぼんやりとしか覚えていなかった。少しの年月の寂しさを思った。

後輩が今年就職したことを思いだし、飲んだときに祝辞よりも先に「おい、御社に年上豊満美女はいねーのか」と恫喝したところ、呆れ顔で「そういう人はもう相手がいるし、そもそも年上どうこうとか言ってる場合ですかおい」と逆に言葉の暴力を振るわれた。本当に手加減を知らない。社会人としてあるまじき配慮のなさである。まだアラサーに片足の爪先を突っ込んだだけじゃないか。

半べそで加えて「”許すことは人生の贅沢であり娯楽だ”みたいなことを誰かが言っていたけど、優しさも同義の部分があると思うのだよ」とほぼ酩酊した僕はしち面倒くさく話しかけた。お互い出来上がっているのでよいのだ。

 

この世の中で一番贅沢な娯楽は、誰かを許すことだ。

伊坂幸太郎「魔王」

 

彼はなにか頭の中を探しながら、しかしまっすぐに僕を見据えて「……鈴木さんは優しいですけど、優しいというか、あぁ、自己満ですよね」と見つけた解を言い終えると満足げに日本酒をあおった。「なんだ、久し振りだというのに随分じゃないか」と笑うと、「僕たちはいつもこうだったじゃないですか」と笑い返してきた。なるほど確かに、その節はあるかもしれない。

優しさってのは「相手のために」が押し付けがましくなったら終わりだ。それは優しさではなく偽善だ。したいからするというスタンスでいいんじゃないだろうか。と声に出さずに自分を肯定する。

 

僕が5年も連絡のなかったことをからかうと「切れたと思ってて」とはにかんだ。面白いと思った。僕はここ数年、人間関係には賞味期限があると思っていたのだけれど、なるほどどうして。「縁が切れる」という表現もある。つまり、縁は賞味期限なのではないか?という等式が頭をよぎる。

 

そもそも、出不精で面倒臭がりな僕がわざわざ彼に連絡を取って飲みに誘ったのは、単なる懐かしさや興味本位などではなく。もちろんそれもあるのだけれど。バイトを辞めるときに寄せ書きのようなものをもらって、それがいつまでも頭から離れないからだ。

その寄せ書きには一人一人の嬉しい言葉がたくさん書いてあった。嬉しい言葉だけでなく面白いことも書かれてあって、人のことを、あまつさえ先輩を一言で表して「ヘビ」だの「太鼓持ち」だのと宣ったり、それは親しい人の許される表現で、とにかく僕にとっては思い入れがあった。そして彼の頁は曰く「(前略)関係をこれで終わらせたくないです」と書かれていて、嬉しさと小っ恥ずかしさのない混ぜになったものをいつまでも感じていたのを思い出した。この正直さが僕の胸をいつまでも打っていた。

 

大丈夫、大丈夫。まだ切れてない。君と僕との賞味期限はまだまだ先らしい。と独り言ちして、次の約束をして別れたのだった。