よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

夕暮れすぎてきらめく街の灯りは

大きな木に淡紅色の花がついていた。桜が咲き始めたらしい。気付いたのは今日のことだった。樹の根に近いほうから花開いているらしく、上空は未だいささか寂しい。なぜ下方からなのだろう。暖かいからだろうか。栄養が行き渡りやすいからだろうか。幾日か寒い日が続いたが、もう1週間もしたら満開になるのだろうか。雨で散ってしまわないだろうか。そんな小さなことを心配してしまう。満開になったら、近くの公園にビールを持ってひたすらに「東京」というタイトルの曲を聞きながら夜桜を楽しみたい。「貴様がいるのは東京ではないではないか」などと言う無粋なことは言いっこなしである。要は気分の問題なのだから。これはかれこれ4年もやっている儀式というか、僕個人における祭りみたいなものだ。

 

もう1週間もすると桜が満開らしい。会社の近くは桜祭りだとかで、通りに提灯が並んでいる。夜に灯るとなんとも美しい。

しかし寂しいことに、梅はそのほとんどがこぼれてしまった。東北の山間部辺りではまだ見られるだろうか。あの梅を見かけたときの安堵と小さな歓びは桜が取って変わってしまった。結局、今年も高尾梅郷には行けなかった。いつも時期を逃してしまう。

 

先日、大まかに1年ほど会っていない人と会ってきた。僕は、恥ずかしながらその人に好意を持っているようだった。会わなかった1年の間、幾度か曖昧模糊な、靄々とする感情があった。それに気付くと大体はバツの悪い、苦笑いと溜息をつきたくなるばかりだった。恐らく、川端康成言うところの

なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人のほうが、いつまでも懐かしいのね。忘れないのね。別れたあとってそうらしいわ。

『雪国』

da-shinta.hatenablog.com

といったところだろうか。折に触れて湧き上がる掴み所のない浮ついたようなそれが、僕にとっては非常に我慢ならなかった。

いい機会だと思った。年度末だから、さっぱりして新年度を迎えようと思った。そのために今月末に会う約束を取り付けた。仕事も私生活も一区切りだ。うってつけだーー勿論これは、自分が逃げないようにするため、自分の重い腰を上げさせるために作り上げた体のいい小理屈だ。別に年度末でなくたって、年末だってよかったはずである。しかしこれに関しては更に恥ずかしい話があって、大まかに1年会っておらず、昨年末に意を決してお会いした際にはいよいよ言い出せず、モジモジとしてしまった過去がある。そこからほぼ4ヶ月。そのときのリベンジでもあった。

結果、というか、会って始めにする話でもないと相も変わらずずるずると引っ張り、解散のときに僕の重い口は開いた。酒の力を借りるという非常に恥ずかしい、男らしさの欠片もない状態で、事前に考えていた散り散りの台詞を拙い思考で追いかけることになった(寧ろ男らしさとかいうものは幻想で、こういった女々しさの方が男なのであります)。

好意を持っていたということを今更ながら伝え、加えて雲煙模糊な感傷的な感情に決着をつけに来た旨を伝えると、「私は自己満足に付き合わされているのか」と呆れ顔で彼女は言った。彼女らしい物言いだと思った。僕は思わず笑ってしまった。そして僕が笑い終えると、呆れ顔のまま「嬉しいけど、ごめんなさい」と静かに言った。

言葉にしたことで、僕の形容しがたい感傷との決別。目的は達成された。出来れば非常識だの厚顔無恥だのとこっぴどく罵られた方がさっぱりとしたかもしれないが。

 

あぁ、忘れていた。書いていて、僕が考えた遺言に等しき台詞の中に、伝え忘れていたことがあったのをひとつ思い出してしまった。彼女はスカートを穿かない人だった。ずっと前に「次会うときにはスカートを是非」とお願いしたことがあった。次の時に彼女はスカートで、僕はそれが嬉しいやら恥ずかしいやらで、ろくに見向きもしなかった。とてもよいということを伝えられずにいたことを謝罪したかったのだ。まぁそれも既に後の祭りというやつか。

 

"思いのまま"という花がある。梅だ。この花の芳香はほの甘い。今回の出来事は非常に惨めなかたちではあったものの、僕の目的は達成された。思いのままだった。梅の別称を春告げ草という。春は来なかった。梅は残念ながらこぼれてしまった。 雨の降り始める音を聞いた。