よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

ゆっくりと刺さる

言葉には、大別すると即効性のものと遅効性のものがある。

言葉が刺さるというのだから、刃物で考えてみる。もちろん殴られることもある。

即効性は、名言・至言に多く、刃物で思い切り刺されたような感覚に陥るものとでも言えるかもしれない。これは案外傷が治ってけろりと忘れてしまうものが多い。

遅効性とは、その時は気づかないが、あとになって急に刃物が刺さっているのがわかるようなもののことだ。劇的に見える即効性よりも、ゆっくりと回る毒のようでもある。

刺すのは好きだ。しかし、僕は遅かろうが早かろうが、どちらにしろ刺されるのが怖い。

 

小学生の頃、かつての友人は「お前は女に刺される」と言っていたが、残念ながら刃物を向けられることもなく未婚のまま平穏無事に生きている。これは速攻性で、持続力がある。そして、小学生の時分にそんなことを言われる自分が不憫でならない。なぜそんなことを言われたのか、何一つ思い出せない。

自分が後ろから刺される想像をして脇腹を手で撫でる。血の付いた空想の包丁を手に取って眺めていると、自分の手首を切る女の子のことを何人か思い出してきた。不思議なことに、俺は自らの手首を切る女の子を何人か知っている。空想の包丁を地面に投げ捨てて、あの刃物が自分に向かなくてよかったと心の底から安堵している。

 

顔見知りが見ていたり、一方的に見られているかもしれないSNSでは、たまに言いたいことを飲み込む。そして、くだらないことを言うこともなんだか憚られて結局啞になってしまう。まったく自らと紐付けされないアカウントを気まぐれに作ってみたいという何度目かの衝動を感じながら思い出す。ずっと田舎暮らしだった友人は、「誰も自分を知らないところに行ってみたくて」と言って都会にやってきた。なんとなく、その気持ちがわかる。

 

高校時分、知人は「忙しいと色んなことを考えなくていいから助かる」と言った。僕は今も昔も暇が好きなので、変なやつだなと思った。今では一理あるとわかる。そんなことを思い出しながら、最近暇な僕は嫌なことを考え続けて、その原因や解決方法を考えているが、うまく体系立てられない。どれも胡散臭く、言い訳がましくなってしまう。

先日、友人の厳しい諫言に優しさを見ながら、どうも少し落ち込んでしまう。「友情は一種の恋愛感情だ」と言った人がいたが、なかなかどうして。

気分転換にぬるま湯に浸かりながら、出られなくなった躰を湯船に深く沈める。ため息を吐き出すと辛い気分が泡になって水面に向かっていく。

 

ボキャブラリーが感情を凌駕することは永遠にない」という言葉を思い出す。即効性と遅効性を兼ねている。日々は真綿で首を絞めるように感情や思考を少しずつ鬱血させて、僕は人やコンテンツを消費しながら、疑問があればネットで答えを探し何を考えることもなく、なんとなく時間をやり過ごしている。

どこかで僕の言葉が、誰かを背後から深く刺していればいいなと思いながら。