よかれと思って大惨事

感情と思考の供養

台風と頭の靄

天候のことばかり話す人を天候居士と言って、天気のことしか話せない無能な作家を指した。という話があった。

 

タリム。そんな名前の付けられた台風18号が通り過ぎた。これは日本を徹底的に縦断していった。月曜が敬老の日で3連休だった。台風が過ぎ去ったあと、1週間も前に通り過ぎたと思っていた夏が、台風とは逆に眼前に戻ってきたらしい天気だった。土日の非道い豪雨と月曜のしぶとい夏の日差しには随分辟易とし、せっかく立てた出張にかこつけた山梨旅行の予定は脆くも崩れ去ってしまった。

月曜、台風一過の後の暑さは、低気圧が南からの空気を呼び寄せたりだとか、空気中の塵芥を巻き込み持っていったために、太陽光が当たりやすくなるから。というようなことを、ほぼ30になってようやく知る。まったく余計なことをしてくれるものだと思う。九州の知人に、ぼんやりする頭で「とにかく海と田んぼの様子は見に行った方がいい」と親切に教えてやったのだが、「仕事しろ」とだけ返信が来た。

長野の出張。社内の人間とはいえど人見知りを遺憾なく発揮し、必要以上には話せなかった。誰と何をどう話せばいいのか。そんなことをあてもなく考え、次第に面倒臭くなって部屋でごろりと横になった。みんなが自然に楽しそうにしている中、隅で様子を窺っているのがひどく惨めで恥ずかしく、それでも自分の変化のなさに少し安心したりした。解散のあと一人別行動で山梨に向かったのだが、何をするでもなく甲府を彷徨い歩き、金曜の夜、駅近くのホテルから、富士山がその頭だけを他の山々の上から出しているのを暗くなるまで見ていた。太宰治の"富嶽百景"という作品が、「富士には月見草がよく似合う」という一文と共に僕の中に残っていて、それを読みながら太宰も甲府でこんな景色を見たのだろうか。と感慨にふけっていた。翌日は雨。山梨県立図書館に逃げ込んだ。白を基調とし、ガラス張りで、天井の高い現代的で綺麗なところだった。こんな図書館が近くにあればいいのにと思った。

 

ここ数年、元からぼんやりしている頭の中に、霧のようなもやがずっとかかっている。これを脳の溝に思考のゴミが溜まっているせいだと思っているのだけれど、どうせなら台風はこの思考屑も持っていって、今日の空くらい僕の頭の中もすっきりさせてくれればいいのにと、もう寒さに備え始めた躰で炎天下の中を歩く。出張の疲れか、いささか躰が重い。髪を切るために歩いていると、半袖やら長袖やら、色んな格好をした人たちが日陰を縫って歩いている。こんなに暑いなら、いっそ坊主くらい髪を短くしてしまおうかと思う。路地のいつか行こうと思っていた蕎麦屋の入り口にテナント募集という貼り紙がされてあった。前髪をいつもより短く切った。思考屑が髪と共に切り落とされたためか、頭が少し軽くなった気がした。